思ったことを書き綴る「収入の源泉」

思ったことを書き綴る「収入の源泉」

先日は信用について書き綴ってみましたが、今回は生きていく上で必要な収入をテーマにしてみます。

さて、ここで皆さんに質問です。本質的な意味においての「収入」は、どこから発生するのでしょうか?

たとえば、1000万円を得ようとしたとき、銀行から不当に奪ってきても1000万円は得ることができますね。

でもこれを、「本質的な意味での収入」と呼ぶことはできないと思います。では、「本質的な意味における収入」を得ようとしたら、その収入はどこから発生するものなのでしょうか?

私はこのように考えます。

「社会貢献の対価が収入」であると。

たとえば、皆さんが、レストランに行ってお金を払ったとします。このお店の人が皆様の代わりにお皿を洗ったり、食材を買出しに行ったり、料理を作ったり、お店の中を掃除したり、テーブルをセッティングしたり、料理を運んだり、お皿を片付けたりと、いろいろと皆様に尽くした行為に対してお金を支払います。

そして、その金額に満足すれば、またそのお店に足を運び、皆さんに役に立てる機会を得て、その対価として、そのお店は収入を得るわけです。

ところが、料金が高すぎると判断すれば、皆さんはそのお店に足を運ばなくなり、お店は存在意義を失い収入を得る機会を失うわけです。

この場合、このお店は、皆さんから不当な収入を得ているということになります。ですから永続的な発展はないでしょう。お店側から見れば、皆様に喜んでいただき、皆様のお役に立つことによって、皆さんに貢献することによって収入を得ているわけです。

当たり前の話ですが、より多くの人に喜んでいただければ、より多くの収入を得ることになります。ところが、本来であるならば、もっと喜ばれるにはどうしたらよいかを追求するところを現実には利益を追うあまり、材料費を削ったり、現状に満足し、努力を怠る結果、もっと他に良いお店ができたりしてしまい、皆さんに喜ばれなくなってしまい、気が付くとそのお店の存在意義がなくなっていたりするわけです。

「人を喜ばせる」ことができれば、金銭的な収入だけではなく、加えて、広い意味での「収入」を得ることもできます。それは「感謝」であったり、「信用」であったり、いろいろですが、さまざまなものを得ることができるはずです。

よく言われるように、生活のためには「収入」が必要です。つまり、私たちは何かしらの手段で、直接的にせよ、間接的にせよ、「収入」を得なければなりません。

そのための最良の方法が「社会貢献」、すなわち、人に喜んでもらい、人の役に立つことによって収入を得る、ということです。そして、その際にその相手を適切に選べば、より確実ということです。

前回の記事でもテイカーとして紹介しましたが「奪う」ということに焦点をあてて生きている人に、いくら与えても、よろこんで奪ってゆくばかりで、返ってきません。

参照/思ったことを書き綴る「与える人」

これは、逆の立場で考えるなら、もし私たちが何かを与えられたときには、その時、何もお返しできなくてもそれを忘れずに、すこしでも早くお返しするような心掛けをしなければ
ならないんじゃないかなということです。

人は自分がした施しばかりを覚えていて、他人からしてもらった施しを忘れてしまっているものです。

人への借りをすばやく返済し、人へどんどん施しをできる人間になりたいものですね。

社会に貢献する、人に喜んでいただくことで得られる収入は、本質的なものであり、安定的なものであり、また、金銭的な「収入」を超えた、さらに広い意味での「収入」を得ることもできる、豊かさへの道であると考えます。

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